心温まる家族の感動エピソード投稿キャンペーン
最優秀賞

小学5年生の優しさ

とっぽ さん

私は今第3子を妊娠中。
一番上は小学五年生、下は1才5ヶ月で二人共男の子です。
悪阻でご飯も食べられず、下の子の世話もありストレスで遂に旦那に八つ当たりしてしまいました。
それを上の子がこっそり聞いていたらしく、翌日学校から帰ってきて「昨日ママ、好きな物食べれなくて辛いって言ってたでしょ?だから俺今日給食減らしたの。だからママの辛さがわかったよ」と、泣きながら教えてくれました。

私も泣きました。なんて天使なんだろうと。

ごめんね、ママあんな大きな声だして聞こえちゃったよね。
本当にママのところへ生まれてきてくれてありがとう。
3人目無事に出産出来たら皆で美味しいもの食べに行こうね。

沢山食べようね!

優秀賞

父の賭け事

恋園かーこ さん

子供の頃、茶の間でタバコの煙をくゆらす父の姿が印象的だった。
高校を卒業して、海外留学をしていた私の元に届いた父からの手紙。
そこには「あなたの身の安全の為に、神様と賭けをすることにしました。父さんはタバコを断ちます。」と書いてあり、それ以来パッタリと大好きだったタバコをやめ、一本も手にしていない。
神様と勝負した賭け事は愛情の深さで父の圧勝だった。

私が表彰したい人

misa さん

私の母は、なんでもお祝いしてくれる。ささいなことや、大学時代に1ヶ月間の宿泊実習にいった時も。毎日連絡を取り合って、頑張ってるよ!今日こんな嫌なことがあったよ。と話を聞いてくれる。そして1ヶ月ぶりに自宅へ帰ると、ケーキが用意されていた。周りから見ると、過保護だと思われるかもしれないが、昔から、母は私たち子供のことを褒めてくれる。
運動会のかけっこで1番になった時。リレーの選手に選ばれた時。夏休みの工作が入賞した時。合唱コンクールで中央のポジションに振り分けられた時。持久走で目標の順位以内だった時。参観日で、自分から手を上げて発表できた時。
そんな小さなことでも表彰してくれる人。
だから、数年後、母が定年を迎える時は、22年間の出来事を一つ一つ思い返し、私がめいいっぱい母を表彰したい。

母と父の愛情を目の当たりして。

だおなちゅん さん

家を出て一人暮らしをしてからほとんど両親に連絡もせず1人の方が気が楽だと思ってた。
ある日、目の前が真っ暗になって道端で倒れた。親切な人が救急車を呼んでくれて検査を色々して入院になった。病室のドアがあいてそこには母と父が目を真っ赤にして走ってきていた。

その日のうちに連絡がきて仕事を早退して3時間以上かけてきてくれた。ここまで大事にされてるんだと私は初めて実感した。
それから毎週のようにどちらかがきてくれて痛み止めがきかず体がずっと痛くて泣いてた時は母が泊まり込みでずっと傍にいてくれた。

きっとこの時の出来事は一生私は忘れない。

頑張って病気と向き合い頑張れたのは両親のおかげ。
こんなに愛情を注いでくれてたのにずっと連絡もせず親不孝の娘だった。お母さんお父さんありがとう。
この両親の元で生まれて本当によかった。
もっとコミュニケーションとって親孝行していきたいと強く思った。

母の弁当作り

ネオネコ さん

ぼくの祖父と父はそれぞれ自営業を営んでいて、お昼ご飯には母が弁当を用意していました。
母は父の運転手をしたり(父は車を運転しなかったのです)、父の仕事の事務手続きをしていました。その後、妹とぼくが父の仕事の手伝いを始めました。

2年前に仕事を退くまで約50年間、一体何個の弁当を作ってくれたんだろう。母にそんな話をすると「やめて、数は数えないで」と言いました。明日は弁当に何を入れようか…毎日「何が食べたい?」母は聞きます。

ぼくのささやかな協力は「インゲンの肉巻きが食べたい」とか「卵焼きは飽きないよ」とか具体的なおかずを提案することでした。長い間、弁当を作ってくれた母に感謝しています。
(概算5万個でした!)

みなさんからの投稿 みなさんからの投稿

母の優しさ

チョコ さん

僕が5才の頃、両親と旅行に行った帰りに車に酔ってしまい、「きもち、わるい。」と言うと、家まであと500mくらいしかないのに「お父さん、車止めて。」と言って、母が一緒に家まで歩いてくれました。

僕だったら「あと少しだから、もうちょっと我慢して。」と言うと思うけど。。
母の優しさを感じたエピソードでした。

受験の朝

めめりん さん

高校受験の朝、運悪く乗る予定の電車が人身事故でストップ。
プチパニックになった私は、慌ててお父さんに電話。
平日で仕事があったにもかかわらず、車で駅まで迎えに来てくれて、そのまま受験会場まで送ってくれたお父さん。
車の中ではずっと「頑張れ」と励ましてくれてありがとう。
無事に受験に間に合い、志望校に合格することができました。

遠い日

はる さん

私は父の事を何も知らずに育ちました。
会話もなければ心を通わす日常なんて一つありませんでした。

私は一人暮らしをして10年経ち、体を壊し入院、父は、母とも離婚していたので、兄夫婦の所へ帰省しました。
その…父の病気を看病する事に。今までろくに会話もない、父親らしい事をしてもらった記憶もない、つらいばっかりの子供時代を過ごして来たのに、なんで私が、と、思うばかりでした…帰省しなければよかったとも思いましたが、看病しながら1日1日経つうち、今まで知らなかった父の性格や、考え方、父は父で辛い事があって、こうなってしまったんだと薄々気がつきましたが、それでも許してあげられなかった。

今は父ももう亡くなりましたが、その頃、思い出した事があったんです。私が小さな頃、兄と父と3人で、夜、ラーメンたべに行った事を。私はその時、すごく美味しかったラーメンと、今は亡き兄と、亡き父と、笑って夜道を歩いていた事を。

死産したあと

かずお さん

わたしは、今年夏、死産しました。36週で、お腹のなかであかちゃんを亡くしました。死亡がわかったとき、わたしたち夫婦は、一晩中寝れなくて涙がとまりませんでした。看護師さん先生も、まるで家族みたいに泣いてました。死んでいる我が子を出産するとき、促進剤をつかい、1時間の陣痛で産みました。産んだ泣かない我が子は、くるしい表情でわたしをみてました。

先生、助産師さんたちは、かわいいって死んで泣かない我が子に声をかけ、体をふいてくれました。それから一晩、病室で私と添い寝をしました。翌朝、我が子の顔がかわり笑顔になって涙をながしていました。

まるで、わたしに別れをいうかのように… 絶対、こんどはいきてあいたい。

声がききたい。陣痛1時間の親孝行なんかしなくていい、生きてあいたかった。

常に寄り添って。

あーちゃん さん

今から24年前。息子が産まれたときの事です。
産まれて5日で、先天性の病気と合併症の心臓病が分かり私はショックで希望を無くしていましたが、主人はそれからずっと寄り添ってくれています。
病状が大変だったので通院の度に治療法の決断を直ぐに決めないといけない事が多く、通院も一緒に行き常に二人で話し合って一緒に育てて来ました。

今では息子も大きくなり施設に通いながら楽しく過ごしています。
あれから子育てや親の介護など色々ありましたが、常に二人三脚で歩んでいます。
これからもお互いに労りあって長く一緒にいたいです。

親父超え

ギザギザ仮面 さん

男はいつか?親父超えをしなきゃいけなくて、今46歳だが33の時だった、親父と喧嘩になり、親父の手を捻った。
それでオイラは親父超えをして単身一人暮らしを始めた。34歳でエッセイの目録。46歳にしてまた目録を貰った。
ECO賞という奨励賞で。自分は精神病の患者だった。悪い事ばかりしてきたので良い事をしていこうと思っている。

ありがとう親父お袋。

感謝の気持ち

m さん

私の父と母が小学生の頃から別居し、私は小学校の帰りに父親の店に行き、母が帰る前にこっそり家に帰る生活をしていた。
子供ながらに、父と母が喧嘩してること、寂しいと言えば母が悲しむことも分かっていた。
ずっと我慢していた。私達が引っ越し、新しい地で過ごすようになってからも、父のことは忘れたことはない。
中学生になり初めての面談で、ほとんど記憶のない父への気持ちを全て担任に伝えた。
すると担任はその後の三者面談で母へゆっくり伝え、母と私は今まで言えなかったことを伝えながら共に涙を流した。
それ以降、父の話もタブーではなくなった。
そのきっかけを作ってくれた担任はその時既に病気になっていて、その1年後に亡くなり、もういない。
たくさんの感謝の気持ちを今でも伝えたいけど、もう伝えられない。
自分の気持ちは、すぐに相手に伝えることがとても幸せなことなんだなと思った。

治れ治れー!

ちゃんもも さん

私には7つ下の弟がいます。幼い頃の弟は身体が弱くて体調を崩すことが多く、その度に私が塗る風邪薬を「治れ治れー!」って弟に塗っていました。その数ヶ月後、私が怪我をしてしまい消毒液をつけて「治れ治れー!」と言ってたら、それを思い出したのか弟に塗った風邪薬を持ってきて、覚えてくれてることと弟の小さな優しさにとてもほっこりしました◎

茶色いおべんとう

しののめ さん

まだ主人と結婚する前、私の父と祖母が同時に入院した。私は毎日仕事帰りに、2つの病院に通った。帰りはいつも20時過ぎ。真っ暗な我が家にいつも疲れ切って帰った。
そんなある日、主人が我が家にお弁当を届けてくれた。
ちゃんと食べているか心配した主人の母が、持たせてくれたものだった。
すぐにお礼の電話をしたら、残り物詰めただけのお弁当じゃけど食べて、と。
私は愛情たっぷりの不恰好な茶色いお弁当を、有り難く泣きながら食べた。
母を早くに亡くした私は、誰かが作ってくれたお弁当を食べるのは久しぶりだった。
あの時の味は一生忘れない。
お義母さん、いつまでも長生きして下さい。

血は繋がっていないけど…

クロネコ さん

私が中学校卒業と同時に両親が離婚。それから約10年後に母は大学時代の同級生が働くクリニックの医院長と再婚することになります。はじめは再婚相手からの虐待などの問題が取りざたされている中で、再婚に反対だった私は、弟から『お母さんが、残りの人生一人ぼっちで暮らすより誰かと一緒に生活した方がええやん。』と、結局賛成に転じましたが、今では5人の孫の世話に追われ、とても可愛がってくれている義父です。

大好きなお父さん

ちはる さん

大好きなお父さんとは20年しかこの世で親子でいれなかったね。
お父さんが亡くなって早18年になりますね。
お父さんが38の時に産まれた私の年齢は今38です。
お父さんにも私の息子達、抱っこしてほしかったなぁ
1度だけ、お父さんと一緒に孫の世話がしてみたかったと涙目だったお母さんの顔が忘れられません。
お父さんにもお母さんにも怒られたことない私は、本当に2人が大好きです!
小さい頃にしてくれた居心地良かったお父さんの腕枕…今たまに息子にするけど、けっこう痛いね笑
親になって親のありがたみや、愛情がわかった気がしますが、まだまだお父さんに会いたくなり涙が出るから、まだ私は強い母になれてません。
これからも天国で見守っていてくださいね!

解ってあげられずごめんね

アズキナ さん

離婚し23年経ったある日43歳になったひとり息子(高2と中3の子供有り)に余命数ヶ月の父親から連絡があり私に内緒で家族4人で入院先で会っていました。
父親は20年前に再婚し18歳になる息子さんがおり転勤で地方を回り地元に戻っていたようです。
息子家族と会った数ヶ月後、元夫は65歳で亡くなりました。
息子が喪主をつとめる事を知らず葬儀に参列した私に息子は「何しに来たー」と怒鳴りつけ「オヤジとの約束を守れなかった」と泣くのです。
借金を作り息子に残すと約束した家も知らない間に売り払らわれ母一人子一人で過ごした23年間が…脆くも崩れた瞬間でした。

あれから6年経ち偶然地下鉄駅で会った息子に「大変だったね」と声をかけると黙ってうなずいていました。
解ってあげられずごめんね。

娘が

東予稲村 さん

平成九年十一月十日、妻はダンプと接触して脳挫傷、頭骸骨骨折の大事故にあった。危篤状態に陥った為に私は自分を失ってしまった。その時、小学校五年生の娘が私の代わりをしてくれた。医者の説明も看護師の指図にも耳を傾けていたが、私はその時の記憶はなかった。一週間の意識不明が続いたが、私は何をしてれよいのか自分を忘れていた。食事の用意も娘がしてくれた。そして、妻が意識を回復して、横に娘がいたことに気が付いたほどだった。
今もあの時の冷静な娘に感謝している。

お迎え

しずく さん

私が3歳の時の話です
保育園でお迎えを待っていて
皆お迎えが来るなか待っても待っても両親が来ず、
最後の一人になったときもしかしたら誰も来てくれないかもと不安になりました。必死で涙をこらえながら先生と一緒に待ちました。
1時間後、遠くに見えたのは慌ててお迎えにきた父の姿でした。
その瞬間安心で号泣し、父の背中に飛び乗りました。
おっちょこちょいな母がお迎えを忘れていたらしいのですが今では笑い話です。その日は私が泣いていたように、パラパラ小雨が降っていました。

最高のお兄ちゃん

笑顔日和 さん

私のお兄ちゃんは性同一性障害である私をいつも守ってくれました。
「お前は何にも悪いことしていない。いじめも俺が守ったる」といつもクラスに見に来たり、守ってくれました。そんな兄が私は大好きです。

鰹三枚おろし

のぶたろう さん

二十歳で結婚が決まり父は57才でした。酒癖が悪くあまり話さなかった父ですが60才で他界し今1番あいたい存在です。何故か追い求めている気がします。あれこれ25年経ちますが、夏休みに船に乗り鰹の1本釣りに出かけた日を思い出します。船酔いでしたが、魚を三枚おろし位出来なあかんと怒られ、鰹で練習、あの日は忘れられません。結婚反対してた父が二十歳で嫁に出してくれた父の日に感謝してます。

「形見」

たけちゃん さん

祖母が他界して5年。
祖母の形見の物は無く、全て処分されてしまった。
ただ1つを残して。
俺の右手。
幼い頃、熱湯をかぶって右手に大火傷を負った時、入院中ずっと側にいてくれた祖母。
祖母のおかげで俺の右手、今は人の役に立てるようになりました。
ありがとう、ばあちゃん。

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